企業情報
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終戦後、基礎工事の専門会社であった白石基礎工事の社長 白石多士良氏は、めぼしい土木工事がなく、従来のニューマチックケーソン工法による大規模工事が当分実施されない情勢に鑑み、一般土木建築に転向を考えました。
1948年の春、昵懇の交友関係にある大林組副社長(当時)中村寅之助氏に相談し、建築関係の技術者を求めました。そこで中村氏は、東京支店長代理兼建築部長であった山本一夫に話を持ちかけました。
山本は、
1.円満な退社であるのみならず、関西流の所謂「のれん」を分かつ形をとるということ
2.自分の欲する技術者を分けてくれること
を大林組が承諾することを条件に、白石基礎工事に行く決意を固めたのでした。
大林組が承諾したことにより、 山本は1948年6月に金子正光、梶らと共に白石基礎工事会社の建築部を創設することとなりました。8月には八橋健二、井口らが加わり、建築部の体裁も徐々に整って行きました。
この頃、白石多士良氏と親交のあるA・レーモンド氏が来日し、スタンダードオイル社などの工事を受注することができました。12月からは、有馬正雄、一重八十治、相馬吉夫、中村正男らが新たに社員に加わりました。
1949年、建築業界は厳しい年明けを迎えました。どの会社も、常に工事の獲得難と金融難に悩まされ通しでした。白石基礎工事も同様、あるいはさらに苦しい状況でもありました。 そんな中、建築会社が「基礎工事会社」の名称であるのも如何なものかとの考えもあり、昭和24年5月、社名も改め「白石建設株式会社」として新発足を計る事となったのです。 本社を丸ビルに置き、初代社長に白石宗城が就任しました。
その年、社員には山田収、八橋克己、近松尚一、林勝治、鈴木昭作、大野沢信、岸高らが入社し、工事においても、タイムライフ社宅、阿佐ヶ谷神学校工事、大久保ミッションホーム、日本鋼管などの工事を受注し、次第に活気づいて行きました。
発足2年目には、岡部省三、鈴木由太郎、中山岩雄、三吉正雄、伊藤征賢、佐々木綾子女史の入社で、一段と陣容が整って行きました。
A・レーモンド氏は世界一流の建築家ですが、公私ともに白石多士良氏の友人でもありました。多士良氏は、1887年に、父直治氏と母菊子氏の長子として神田駿河台に生まれました。内閣総理大臣となった吉田茂氏は多士良氏の叔父に当たります。
多士良氏は、日本に半世紀近くも先行していた建築技術を学ぶため、米国に留学していましたが、その際、多くの技術者、建築家、事業家との交友を得ました。A・レーモンド氏とも、この頃に親交を得たものと思われてます。
1948年 | 白石基礎工事会社の建築部を創設 |
1949年 | 本社を丸ビルに置き、白石建設株式会社を設立 |
1949年 | 初代社長に白石宗城が就任 |
A・レーモンド氏は、設計図面では表現できない施工面での仕上げ、品質管理に特に厳密でした。
そんな彼の作品に対する高い品質への要求を成し得る技術者として、親交のあった多士良氏を通して、 白石建設は、A・レーモンド氏の設計による数多くの作品に携わっていきました。
施工精度、品質へのあくなきこだわりは、白石建設の技術者たちと共鳴し、「品質は、全てに優先する」という企業理念を確固たるものとしました。
A・レーモンド氏の自伝には、「白石建設は私の築きあげた会社といって過言ではなく、一流の正直な仕事を確保することができたのである」と述べられています。
創業まもなく、タイムライフ社宅をはじめ、外資系企業の建物や外国企業の建築に携わる事ができたことが、初期の発展の大きな原動力となりました。
創業2年目の1950年には、戦後我が国初のコンクリートの振動打込機を使用してのコンクリート打ち放し住宅と推測されているスタンダード石油横浜社宅(ソコニーハウス)を施工1950年代は、レーモンド設計をはじめ、朝吹建築設計、菊竹建築研究所、清家清、増沢洵建築設計、森京介建築設計、吉村順三、など著名な建築家の設計による高級住宅も多く施工してます。
1950年 | 社長 真田金城 就任 資本金 150万円に増資 |
1951年 | 社長 鈴木 甫 就任 |
1957年 | 社長 山本 一夫 就任 資本金 900万円に増資 |
1959年 | 創業10周年 資本金 1,500万円に増資 |
1960年代は、受注の拡大とともに、本社移設、営業所や土木部門の開設、PC研究、工場設立など独自の技術を蓄積し企業の成長が図られた時代でもありました。
プレストレスコンクリート技術で大梁スパン工場[梁瀬(ヤナセ)自動車本社ビル]の施工もこの時期に行われました。
この10年間は、共同住宅やオフィス・商業ビル、生産物流施設など多用途の建造物の受注を獲得していきました。
1962年 | 都内の調布市にPC研究室と工場を設立< | 1962年 | (有)石友 設立 資本金を1億2000万円に増資 |
1964年 | 日本交通公社ビルに本社を移転、 浦和営業所を開設 |
1967年 | 白石土(株)を設立/td> |
1969年 | 社長 八橋 健二 就任 土木部門新設 創業20周年 |
1973年、1978年の二度のオイルショックにより、不況は長引き、公共事業費をはじめ財政支出の削減が続いた時代でしたが、民間受注を主体としてきた弊社は日本の良好な住宅環境の整備が進む中、多くの共同住宅を受注し建設する事ができました。
1970年代後半には、民間企業のオフィス・商業ビルや厚生余暇施設の工事案件も増え増えていきました。
社内組織の拡大とともに事業の拡大が進み、本社を渋谷に移転するとともに、厚木に機材センターの開設も行われました。
1971年 | 多摩営業所開設 |
1972年 | 日本住宅公団開発の組立鉄筋工法及び大型機械型枠工法の実験棟を同公団量産試験場内に建設 |
1972年 | 千葉営業所開設 |
1975年 | 資本金 3億円に増資 |
1977年 | 渋谷に本社移転 資本金 3億8,000万円に増資 |
1978年 | 厚木に機材センターを開設 |
1978年 | 資本金 4億1,000万円に増資 |
1979年 | 創業30周年 |
1980年前半は「建設業冬の時代」といわれ、日本経済は低成長時代でしたが、これまでの蓄積した技術と業績に対し、安定した受注の維持が行え、高円寺に自社社屋の建設、移転を進める事ができました。
また、さらなる飛躍にそなえ、TQCの導入、活動を行い、全員参加の品質管理、企業体質改善、社員の意識向上が図られたのもこの時代でした。
1980年代後半には、民間による設備投資が回復した背景も重なり、受注獲得も好調に推移し、住居系建物からオフィス商業ビル、厚生余暇施設、宗教施設などを中心に多用途の建造物に渡り工事物件の受注が続き、大きな飛躍がとげられました。
1980年 | 社長 三吉 正雄 就任 資本金 5億円に増資 |
1982年 | 高円寺本社社屋完成 高円寺に本社移転 |
1985年 | 我が国初の38条特認を得た免振構法採用建物として、神奈川県に澤田美喜記念館(キリシタン資料館)を施工 |
1987年 | 社長 八橋 克己 就任 |
1989年 | 創業40周年 |
資本金を10億に増資した後、1990年代前半のバブル経済の崩壊。これを契機に、社会全体の閉塞感が広がっていく時代がやってきました。特命案件は大幅に減少したものの、これまでに培ってまいりましたお客様からの信頼のもと努力を続け、住居系やオフィスビル、生産流通施設を中心に民間工事の受注を確保していきます。
苦しい時代ではありましたが将来を見据え、情報のデータ化やCAE、CADの導入活用が積極的に進められました。
また、コンクリート建造物を得意とする弊社は、高層鉄筋コンクリート造建築構法の技術認定の取得にも取り組みました。
1990年 | 資本金 7億7,000万円に増資 |
1991年 | 資本金 10億円に増資 |
1991年 | 神奈川営業所、埼玉営業所を開設 |
1995年 | (財)日本建築センターより、高層鉄筋コンクリート造建築構法の技術認定を受ける |
1999年 | 創業50周年 |
2000年初頭の数年間は米国経済減速や不良債権処理問題などで緩やかなデフレ傾向は続きました。そうした背景の中、企業の設備投資の低迷もあり受注の中心は住居系の工事物件が多くなっていきました。
限られた工事量の中で奔走し共同住宅以外にも、教育施設、オフィス・商業ビル等の工事の受注に成功します。
太陽光、地熱、井水等の利用による自然環境を利用した環境設備建物の建設などにも取り組み、地球環境を考えた建築の推進しも貢献して行きました。
2001年 | 積算部にて積算システムの本格導入と運用を開始 |
2002年 | モダン・ムーブメントの建築100選に3作品選出(スイカイハウス、number38、軽井沢のスタジオ)< |
2006年 | 社長 安部幸治 就任 |
2007年 | (有)石友を吸収合併 |
2009年 | 創業60周年 |
2011年3月11日には、東日本大震災という未曽有の大災害が発生し、この大災害を機に構造物の安全性や事業継続計画に対するニーズはこれまで以上の高まりを見せました。
景気の回復に従って、工事量も回復する一方、相次ぐ自然災害からの復興工事や東京オリンピック関連施設をはじめとした大型プロジェクトの着工もあって、建設単価の高騰と人手不足が進行していきました。
この様な人手不足の中、「生産性、業務精度・スピード、コミュニケーション、業務改革意識」の向上のために、建設ICT(情報化施工、現場管理ツール、スマートデバイス利用)の導入を進めています。
また、人材の多様性を推進する事を目的に、社会全体で女性の活躍の場が増えている中、現場監督としての施工管理職種に女性技術者の募集と育成を開始しました。
私達は、低炭素社会の実現に向けて、建物の省エネ化、再生可能エネルギーの普及の実現に向けて着実に取り組み、100年先までも見据えた安全・安心・快適な社会づくりに貢献して行きます。
2012年 | 女性現場監督技術者の採用および育成の開始。 |
2013年 | 社長 北澤 暖 就任 |
2014年 | 日本におけるモダンムーブメントの建築174選に「嵐山カントリー倶楽部のクラブハウス」が選出 |
2018年 | 品質管理維持と技術の革新対応にむけて、技術部を独立創設 |
2019年 | 創業70周年 |